●カサブランカ



 びんの空気が、ねばり気のある液をくぐり、じっとり上へあがる。こはく色のその液体は、台所からくすねてきたハチミツだった。そのハチミツのあいだへ浮かんでいる、おびただしい数の赤と黒。これらはすべて、テントウムシである。あるものは天を向いて、あるものは地を向いて、あるものはこちらを向いて、またあるものはあらぬ方を向いている、テントウムシたち。それぞれが、ありとあらゆる角度で、ハチミツに浸かっている。
「こんな不気味な子は、見たことがないよ」
 そう、おばあさんが言うのを、キヨカはじっと聞いていた。
「子どもだからって、ゆるさないからね。まあ、ぞっとする……。あんた、はやくこれを片づけてしまいなさい。せめて、きちんと地面に埋めてやるんだよ」
 おばあさんはわざとらしくびんを投げ捨て、背中をブルっとふるわすと、両手をはたいて服になすりつける仕草をしながら、家へ戻ってゆく。キヨカはその曲がった背中が見えなくなると、びんを軽くけとばした。テントウムシだらけの入れものが、ごろと転がる。
 キヨカは家に戻ると、玄関の下駄箱のうえに、今日も上品な花が生けてあるのを見た。カサブランカ。その名はよく知っていた。おばあさんの大好きな花だからだ。おばあさんに腹を立てたときはいつも、キヨカはその花をめちゃくちゃにしてやりたい気持ちで、いっぱいになった。あたまのなかでは何度も、それをわしづかみにして投げ、壁にぶつけていた。花びんが割れる。水が流れる。白い陶器のかけらに混じって、大きな花が散らばる。しかし、ふと落ち着いてみると、カサブランカは相変わらず生けてあった。彼女はこんなとき、いつも心にもやもやしたものをとどめてしまうだけで、実際にはなにもできたためしがない。

 次の日も、キヨカは台所からハチミツをぬすんだ。おばあさんが出かけているあいだならば、なんでもできるのだった。
 この古い家と庭は、とにかくだだっ広い。彼女は外へ出ると、庭のすみにある古戸を目指した。雨風にさらされて黒ずんだその戸を、ぎい、と開けると、ちょうど家の裏に出る。それから背の高い雑草をかき分けて、大好きな裏庭を歩きまわるのだ。今日は少し風が強い。裏庭の緑が、水面のようにゆれていた。昨日あれだけたくさんつかまえたのに、テントウムシは今日も数え切れないほど飛んでいる。キヨカはびんのふたを開けて、テントウムシを集めはじめた。
「今日は風が強いのね」
 かわいた雑草にとまる朱色の羽へ向かって、キヨカは話しかける。
「まったくだ。これじゃ、草につかまっているだけで、いっぱいいっぱいだ」
 答えたテントウムシをいきなりつまんで、ハチミツに押しこむ。人差し指と親指にべったりとハチミツをつけたまま、今度は次のテントウムシを探す。
「今日は風が強いのね」
「ほんとうだ、草につかまっているのも大変だぞ」
 答えたテントウムシをつまんで、またハチミツに押しこんだ。しばらく続けていると、しだいにびんが赤くなってくる。つかまえたばかりのテントウムシは、ほんの少しのあいだ、ごちゃごちゃ足を動かしている。
 わたしはいつまでこの家にいるのだろう、と足元がぐらつくほど考えてみるときが、キヨカはこれまでに何度もあった。もはや記憶にも残っていない父と母の不在を悲しむことはできないものの、少なくとも両親が生きていてくれたなら、自分はこんなところにはいなかったはずだ。こうして息をひそめて暮らさなければならないのが、あまりに悔しい。それでも、大人になったらきっとすべてが良くなるはずだと、あてもなく信じておくほかないのだった。

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